YAMA_blog

愛知産業大学通信教育部 山口雅英のブログ

とにかく「視る」こと

2008.08.19

このところずっと「視る」というテーマで書いてきた。

とにかく「視る」ことをおろそかにして良い作品を描くことなどできない。このことはどれだけ強調してもし過ぎではない。初学者のみなさん肝に銘じてほしい。例え手先が器用に動かせたとしても、その器用さを持って何をどのように描かせるのかを決めるのは心であり、そのように心が何かを決められるのも「視る」ことを通じ様々に感じ、考えているからこそ。まず「視る」、そして心が作られる、動く。

「何を描こうか」を決めることは「何が視たいのか」を明確にすることに他ならない。 「どんな料理を作ろうか」を決めることは「何を食べたいのか」を明確にすることに他ならない。料理と全く同じである。

人間の学習活動の約八割は視覚に依存している、と言われる。学習に限らず人日常生活の中で視覚は日夜大変な量の情報を処理している。「いちいち味わってい たら追いつかない」、視覚はそういう状況にある。そんな視覚を通じて何かを味わうことができるようになるためには、それなりの練習が必要となる。本来味わ う能力を持っているのに活用されないから弱くなってしまった、それを復活させるリハビリと言っても良いだろう。では具体的にどのリハビリはどのようにした らよいのか。
初学者においては、「上手に描きたい」というようなことは漠然とした意識はあるものの、「どのような絵を描きたいのか」というはっきりしたイメージ を持っていないことが往々にしてある。これは、例えるなら「何を食べたいのかわからないが、とりあえず何かを上手に料理はしてみたい」というような方向性のまったく定まらない状態である。自分がどんな料理を作ることで何を味わいたいか、このことをはっきり見据えるためには、とにかく美味しいと思うものをどんどん食べてみること。理屈など抜きで良い、美味しいと思って鑑賞できる作品をどんどん「視る」こと。どんどん「視る」ことを通じて自身のテイストを養うことだ。

この記事のカテゴリー:絵画, 関係を視る

ピカソは絵が下手なのか

2008.08.18

先に「関係を視る4」でピカソの話題を出したが、そのついでの話題。

ピカソは絵が下手なのか。それに対しての結論、というよりもこんなふうに捉えてみたらどうか、というひとつの考え方。 所謂上手な絵、というのが写真のように対象そっくりに描くことだとする。そしてピカソがそのように視覚的に正確に描こうとしたのに、技量の無さ故にあんなふうになってしまったのなら「下手」である。しかし、先に述べたように、表現の原理が異なっているのだ。ピカソの作品を問題にする以前にその判断基準を問題にすべきなのだ。しかしそれだけで「だから下手ではない、上手なのだ」と結論づけようと言う訳ではない。上手、下手は技術的な問題としよう。技術の良し悪しならば、目的達成のためにそれが効果的であったか否かということで判断できる。

ピカソが上手か下手かということは、要は、ピカソが自分が「こんな絵を描きたい」という目的を効果的に達成できる技術を持っていたかどうかということである。レオナルド・ダ・ヴィンチのような絵であれ、子供の落書きのような絵であれ「そのような絵が描きたい」と想った人が「そのように、想ったとおりに完璧に描けた」というならその人は技術がある、上手なのである。ピカソがレオナルド・ダ・ヴィンチのように描きたいと想ったのに、ご存知のようなピカソの画風になってしまったのなら、ピカソはめちゃめちゃ絵が下手である。しかし、恐らくはそんなふうに描こうなどとはみじんも想ってもいないだろう。ピカソがあのような絵を描きたいと想い、それがしっかりと実現できたのならピカソは上手なのである。もしある人がピカソのように描きたいと想って描き始めたのに、レオナルド・ダ・ヴィンチのような作品になってしまったなら、それを下手と言って良いのかどうかわからないが、残念ながら自身のイメージを実現する技術を持ち合わせていなかったといわざるを得ない。これは冗談のように聴こえるかも知れないがあながち無い話ではない。例えば子供のように無邪気に描くことは実はとても難しい。特にデッサンの訓練をみっちり受けた人ほど、その慣れ親しんだ描き方から抜け出すのは難しい、無邪気に描こうとしても、例えばつい陰影を付けてしまったり、現実的なプロポーションで描いてしまうのである。当のピカソ自身も正にそのことにただならぬ苦心したのではないだろうか。

ならば、ピカソは自分が描きたいように描けたということで絵が上手だったんだ、という結論かというと、そうも言い切れない。上手になる、熟練する、技術が向上する、ということは、それが職人の世界であるなら手放しに肯定されることだろう。しかし芸術の世界では必ずしもそうではない。勿論ある種の技術が必要であることは否定できない。しかし、それが全てではない。芸術とは手の技である以上に心の在り様である。何かに熟練するということは、それと引き換えにそれに対する「新鮮さ」を失うことである。時に芸術家はこのことをとても警戒した。どうしたら心の新鮮さを保てるのか、毎日視ている世界がそれでも常に新鮮なものとして感じていたい、何年も続けてきた描くという行為が常に新鮮なものであってほしい。これはある意味技術志向とは正反対の考え方である。ピカソが子どものように描くことを志向したのもそういいうことであったと思う。ならばピカソは下手だ、つまり技術がないじゃないか、と言う人こそがピカソの良き理解者なのかもしれない。そんなふうにも思われる。みなさんどう思われるか。

この記事のカテゴリー:雑稿

関係を視る5

2008.08.18

「視覚的に捉える関係」と「知覚的に捉える関係」。いずれにせよ、漠然と視ているだけでは絵は描けない。3次元の世界を2次元に再現できるように観察する、という特別な捉え方、意識。デッサンで培われる力は多岐に亘る、その一つ、世界を、2次元の中の多様な関係として翻訳し表現する視方、感じ方、考え方。これは再現的表現のみならず、非再現的絵画、幻想絵画、抽象絵画等あらゆる絵画表現の根底を為すもの。

2次元の造形世界での表現における演出の仕方を学ぶ、と言っても良いかもしれない。 登場人物だけではドラマにならない。登場人物が様々な状況で様々に関係することによりドラマは動きはじめる。表現となる。絵画も同じ。ただ対象をそっくりに上手に描ける、それだけでは表現にならない。何とのどんな関係の中で描くか。極論すれば、関係こそが表現である。音楽には音楽の、ダンスにはダンスの、小説には小説の、料理には料理の、あらゆる表現にはその表現媒体に応じた関係の表現の仕方がある。その力を付けてこその絵画表現である。

再現的絵画、非再現的絵画、いずれの制作においても単に「自分はこんなモノを描いた」だけでなく、「こんな関係を描いた」と語れるような意識で制作してみてほしい。

この記事のカテゴリー:絵画, 関係を視る

 
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