YAMA_blog

愛知産業大学通信教育部 山口雅英のブログ

ブログ移転のお知らせ

2011.12.17

このたびブログを移転することになりました。

新しいブログのアドレスです。

http://www.asu-tsukyo.jp/yamablog/
今後とも引き続きよろしくお願いいたします。

この記事のカテゴリー:未分類

新サイトへの移行

2011.08.26

まだ決定しているわけではないが、少し前から、大学の事情でこのYAMA_blogを別のサイトに移行するという話があった。ではそれまでの間少しお休みを…と思っていたが具体的な話が来ないまま2ヶ月近くたってしまった。

この記事のカテゴリー:未分類, 雑稿

展覧会の紹介 佐藤貢展

2011.06.13

佐藤貢展案内状

 佐藤貢氏は、オーストラリアの原住民アボリジニの「手ぶらで砂漠を旅をする。必要 なものはおのずと向こう側から来る」という言葉に啓示を受け、絵具を買うことをやめ、家の近くの海岸で拾い集めた漂流物で作品を作るようになった。流木のようにインテリアや家具として利用できるようなものではなく、もう「ゴミ」としか呼ばれないもの、何の役にも立たないものに惹かれる、と佐藤氏は言う。海を漂い、潮にもまれ、陽に晒される中で、目的や意味、価値といったものまでもどこかに洗い流してきたモノたち。

 こんな話を聞かせてもらった。ある人が作品の材料にと、古い時計の部品、歯車を佐藤氏にあげようとしたところ、「この部品は、まだ古い時計の修理に使うことができる」と言って受け取らなかったそうだ。佐藤氏の眼には、まだ利用価値のあるものは漂流物として写らなかったのかも知れない。

 そんな作品の中に数点、蝶の標本を素材にした作品があった。聞くとそれはギャラリーのキュレータ正木さんの持ち物だったもので、ガラスが割れくちゃくちゃになり、それでも捨てられずにとっておいたものを佐藤氏が見つけて作品にしたとのこと。佐藤氏が海岸の漂流物を拾っていたのは和歌山県で海の近くに住んでいた時のことであり、名古屋に来てからはこのように名古屋の街の中で見つけたもので作品を制作しているそうだ。「海岸に行こうと思えば30分もあれば行けるが、でも行かない」と佐藤氏は言う。なるほど、「必要なものは自ずと向こう側から来る」、こちらからは出向かないということか。恐らく佐藤氏にとっては街で見つけたものも、社会や時代という海を漂った末にそこに漂着した漂流物なのであろう。

 当然ながら海岸と街では、得られる漂流物も 異なってくる。それを使って作られた作品も自ずと変化するであろう…と思いきや、使う漂流物の異なりがそれほど作品の様相の異なりとなって現れているわけではない、というのが私の印象である。しかし、漂流物の在り方が作品制作にほとんど関係ないということを言おうとしているわけではない。このあたりのニュアンスを伝えるのが難しい。

 佐藤氏の作品は、よくあるような漂流物そのものを見せどころとするような作品、漂流物の持つ魅力に依存するような作品ではないということ。ボックス・アートで有名なジョセフ・コーネルという作家が いる。ボックス・アートとは箱の中に、いろいろなモノを寄せ集め、組み合わる表現方法である。(ジョセフ・コーネル・ウェッブミュージア参照)http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/cornell/

一見、同じような考え方で制作に臨む作家のように思われるが、モノの扱い方に対する考え方はある意味真逆である。

 コー ネルの作品において、モノたちは、あたかもボックス(箱)という舞台でそれぞれの個性と持ち味を発揮しながらお芝居を繰り広げる登場人物のようである。これと比べるなら佐藤氏の作品に使われるモノ達にその華々しさはない。華々しさがない、というよりも役割が全く違う。佐藤氏の作品において漂流物は言わば材料、部品という扱い、そのように私には思われる。さて、こう書くと、コーネルのほうが、モノをしっかりと活かした作品制作をしている、佐藤氏にあってモノ (漂流物)は重要視されていない、と言っているように思われるかもしれない。しかしそうではない。どちらの作家にとってもモノは等しく重要な意味を持っている。ジョセフ・コーネルにとっては作品の内容、見せるものとして、佐藤氏にあっては氏の制作本能を刺激し、制作活動を誘発するものとして。

 赤い糸、海岸で拾った釣り糸が使われた作品 がある。何本もあるように見える糸は、実は一本の糸の撚りを解いて分かれさせたものだとのこと。「面白いアイデアだ」と言う人があるかもしれないが、私はそれを「アイデア」だとは思わない。佐藤氏もどうしてそうしたのか考えがあってのことではない、と言った。そのとおりだと思う。糸を見つめる、その糸が実は何本かの糸が撚り合わされてできていることに気づく、解いてみたくなる…新雪があれば踏みたくなる、缶があれば蹴りたくなる、時計があれば分解したくなる、それと全く同じ衝動、本能なのだ。全く無意味な営み。解いてしまったものをどうしよう、そこから始まっていく…。誤解を恐れずにいうなら、氏の作品は ゴミという価値や目的を失ったモノの集まりを、意味のない営みによって組み立て上げたものなのだ。そしてだからこそ立ち昇ってくる何かがある。「何か」で ある。この何かを今性急に言葉にしようとは思わないが、それを感じることができるのが、作品の造形性に現れる、その圧倒的な造形への意志(あるいは本能) である。

 過去の作品の図版を見ると、展覧会毎に作品の傾向に変化あるものの、モノを造ることへの執着というか、その営みの内に埋没しどこまでも触発を続けていくかのような姿を感じることができる。「無意 味」であることが大いなる「意味」となって作家を制作へと突き動かすのであろう。制作の仕方そのものはそれほど計画的ではないのかもしれないが、そこには 自ずからなる、一貫し揺るがない作者の造形のスタイルを見て取ることができる。

 ア フォーダンスとは、環境が動物に対して与える「意味」、行動を誘発する要因となること。しかし決して環境に対して全くの受け身なのだということを意味する わけでもない。受け取る主体が何者であるのか、どのような能力を持っているのかによっても意味は異なり、誘発される行動も違ったものとなってくる。まさに 佐藤氏の表現にそのひとつの具現を見る想いがした。同じ作品制作に携わるものとしてうらやましくなるほどの健全なアフォーダンスの在り方を。

 会場には作家の言葉を文章にしたキャプショ ンが張られていた。そこには「自由」「イメージ」といったどこにでも見られるありふれた言葉。しかし、これまで書いてきたようなことを念頭に改めてこの言 葉に向かうと、作家佐藤貢氏にとっての『自由』『イメージ』というものが、単なる抽象的な概念としてではなく、地肉の通ったもの、ひとつの生き方として感 じられてく想いがした。

 

展覧会は6月26日(日)まで

名古屋市東区葵2−3−4三光ビル1F

ギャラリー フィール アート ゼロ

http://www.life-deco.net/
(アドレスをクリックするとギャラリーのホームページにリンク)。

 

この記事のカテゴリー:展覧会

 
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