学生YHさんに伝えたこと 行為としての芸術
2010.06.14
現代美術の展覧会を鑑賞してレポートを書く。その課題に対する講評の一部を紹介する。
「物質ではなく、行為としての芸術」「結果ではなく過程としての芸術」近代以前には勿論、なかった芸術についての概念である。しかし、芸術家はいつの時代にも彼の作品に対し描くという「行為」をし続けてきたわけで、また作品を描くときはずっと作品制作の結果ではなく「過程」に関わっているわけで、その意味では、芸術における「行為」「過程」とは人間が絵を描き始めた太古の昔から制作についてまわることである。しかし、それはあくまで描く側の、画家にとっての問題であり、作品の受容者、鑑賞者にはほとんど関係のないことであった。よほどのことでもない限り私たちが身の回りの様々な製品の制作の「行為」や「過程」のことを気にしないように。
現代になってまったく新しい知識や思想、概念や技術によって現代ならではの芸術についての問題提議をすることもあれば、このように芸術の根本的な問題を深く掘り下げ、クローズアップすることもある。技術の発達ほどには人間はそれほど変わっていない。技術についていうなら百年前の技術でではとても実現できなかったようなことを現代の技術は次々に可能にしている。5年前のパソコンでさえ、もう技術的な観点からは「古い」と言われてしまう。しかし絵画、芸術はどうであろうか。アルタミラやラスコーの洞窟壁画は現代人をも引きつける魅力を未だにもっている。ヤン・ファン・アイクの油彩画表現その時点で既に完成の極みに至っている。「人間」ということを問題にすると、物質としての作品、結果としての作品という近代以前の見方とはまったく異なる視点、関わり方が出てくるのである。個人としての人間が重視されるようになるのは近代以降のことである。これは絵画のあり方にも大きく影響を与えている。「今、ここで、私が見たもの、感じたもの、描いたもの」としての絵画。モネを始めとする印象派の作品である。モネの睡蓮のタッチをクローズアップしてみると、全く同じとは言わないが、白髪一雄の作品も共通する何かを見て取ることができるのではないだろうか。画面に残されたタッチ、そこから「物質ではなく、行為としての芸術」「結果ではなく過程としての芸術」といっても過言ではなく、その意味ではレンブラントやベラスケス、ゴヤの時代画家にまでさかのぼることができてしまうのである。
現代に至るまで、やはり作品は物質であり、行為や過程はそれ以前に比べれば関心の対象にはなってきたものの、その意義が逆転したことに大きな意味がある。作品のための行為ではなく行為の結果としてたまたまそういう作品になった。過程こそが作家の精神がもっとも輝くところ、価値のあるところ。こうした問題はただ芸術運動の中におこっただけでなく、どことなく「時代」にもそうものになりつつあったのではないだろうか。
こうした芸術表現に触れる。その作品を、もし良いと思えなければ無理に思う必要もない。その行為の意味もすべてが明快に理解できるわけではない。作品だ、芸術だ、表現だ、という前に、というかむしろそういう色眼鏡をはずしたところでひとりの人間の行為としてとらえてみて、感じてもらいたい。