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愛知産業大学通信教育部 山口雅英のブログ

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学生YHさんに伝えたこと 行為としての芸術

現代美術の展覧会を鑑賞してレポートを書く。その課題に対する講評の一部を紹介する。

「物質ではなく、行為としての芸術」「結果ではなく過程としての芸術」近代以前には勿論、なかった芸術についての概念である。しかし、芸術家はいつの時代にも彼の作品に対し描くという「行為」をし続けてきたわけで、また作品を描くときはずっと作品制作の結果ではなく「過程」に関わっているわけで、その意味では、芸術における「行為」「過程」とは人間が絵を描き始めた太古の昔から制作についてまわることである。しかし、それはあくまで描く側の、画家にとっての問題であり、作品の受容者、鑑賞者にはほとんど関係のないことであった。よほどのことでもない限り私たちが身の回りの様々な製品の制作の「行為」や「過程」のことを気にしないように。

現代になってまったく新しい知識や思想、概念や技術によって現代ならではの芸術についての問題提議をすることもあれば、このように芸術の根本的な問題を深く掘り下げ、クローズアップすることもある。技術の発達ほどには人間はそれほど変わっていない。技術についていうなら百年前の技術でではとても実現できなかったようなことを現代の技術は次々に可能にしている。5年前のパソコンでさえ、もう技術的な観点からは「古い」と言われてしまう。しかし絵画、芸術はどうであろうか。アルタミラやラスコーの洞窟壁画は現代人をも引きつける魅力を未だにもっている。ヤン・ファン・アイクの油彩画表現その時点で既に完成の極みに至っている。「人間」ということを問題にすると、物質としての作品、結果としての作品という近代以前の見方とはまったく異なる視点、関わり方が出てくるのである。個人としての人間が重視されるようになるのは近代以降のことである。これは絵画のあり方にも大きく影響を与えている。「今、ここで、私が見たもの、感じたもの、描いたもの」としての絵画。モネを始めとする印象派の作品である。モネの睡蓮のタッチをクローズアップしてみると、全く同じとは言わないが、白髪一雄の作品も共通する何かを見て取ることができるのではないだろうか。画面に残されたタッチ、そこから「物質ではなく、行為としての芸術」「結果ではなく過程としての芸術」といっても過言ではなく、その意味ではレンブラントやベラスケス、ゴヤの時代画家にまでさかのぼることができてしまうのである。

現代に至るまで、やはり作品は物質であり、行為や過程はそれ以前に比べれば関心の対象にはなってきたものの、その意義が逆転したことに大きな意味がある。作品のための行為ではなく行為の結果としてたまたまそういう作品になった。過程こそが作家の精神がもっとも輝くところ、価値のあるところ。こうした問題はただ芸術運動の中におこっただけでなく、どことなく「時代」にもそうものになりつつあったのではないだろうか。

こうした芸術表現に触れる。その作品を、もし良いと思えなければ無理に思う必要もない。その行為の意味もすべてが明快に理解できるわけではない。作品だ、芸術だ、表現だ、という前に、というかむしろそういう色眼鏡をはずしたところでひとりの人間の行為としてとらえてみて、感じてもらいたい。

受賞した学生へ、お祝いの言葉。

学生から、ある展覧会で受賞したと連絡を受けた。彼女への私からのお祝いの言葉である。

作品を描く、といっても人それぞれのスタンスがあり、
どれが良くて、どれが悪いってものでもない。
紅白歌合戦のようにアイデアを凝らし、大仰に着飾って表現するのも歌だし、
ストリートで聞く人もないのに一人っきりで歌うのも歌。いろいろ。
でも、人の心に響くっものって、スタイルや技法、アイデアなんかを超えたところの、
もっと大切なもの、核になるものがあると思う。
例えば、エゴン・シーレの線。
たった一本の線にはアイデアも技術もスタイルもなにもない。
しかし、そのたった一本の線のたたずまいは
とめどなく心に響く。
スタイルの衣装も、アイデアの化粧もないところの
裸の、スッピンの表現。
人の目にどう映るかも大切なこと。でも同時に
自分は自分の目にどう映るのか、自分の耳にどう聞こえるのか
もっとそのことの大切さが感じられるような表現が増えてほしい。
そこにあるのは自信なさげだったり、何もな貧弱だったり、嫌悪感だったりするかもしれない。
すごくめんどくさいことだったりもするし…。
借り物のスタイル、はやりのアイデアを覆いかぶせ、そんな自分の姿から目を逸らすこともできるのだが。
でもやっぱり作品の強さは自分を見詰める強さに比例すると思う。
そんな作品はともすると、とても繊細で、
着飾って、声高にアピールする作品と並べられたら
かき消されてしまうようなこともある。
でもあなたの作品はほとんど裸でスッピンなのに、
負けない強さをもっていた。
誠実、無垢、真摯、そして強度。
コンクールとか賞とかいろいろな見方があるけど、
「作品に共感してくた人がいるんだ」という具体的な証、手応え。
とてもうれしいことだと思う、良いことだと思う。
本当におめでとう。そしてこれからどんな作品が生まれてくるのか、
楽しみにしています。
落ち着いたらまた遊びましょう。

学生AYさんへ伝えたこと 2 絵画における自由

絵画は自由です。その自由さは人間が自由であるというほどに自由です。自由であることは 時に人に希望であり、悦びであり、迷いであり、絶望である、全てである。真っ白なキャンバスは人間の自由という宿命の比喩として作者に突きつけられる。自 由、すなわち何も確かなもののない明日、しかし人間は明日を生きていく。そのように白いキャンバスに向かっていく。絵を描き始める最初の一筆は、私がその 世界に生まれた産声であり、制作とはその世界の中で具体的に生きていくことであり、作品の完成はその世界において生を全うすること。死と言えば死である。 しかし自分が死ぬわけではない。生まれ変わるための仮の死のである。だから思いっきりそこで生きればよい。悔いの無いように。

 
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