カタチで対話する3
2008.03.24
「今手元にある作品に何をしても良いから『自分』の作品と呼べるものに仕上げること」これが最後の受講生に与えた課題である。こんな調子ですすめてきた講座であるから、受講生は終盤になってから突然自分の作品の制作を求められるとは思ってもいなかっただろう。通常スタートにするはずのことをあえて最後に持ってきた。それにも理由がある。ここまでの演習を通じて想いを造形化することに多少なりとも慣れ、考え方が判ってきたタイミングである。また受講生は当然のことながら「自分の作品を作っていない」と思っている、それを口にする受講生もいた。これは裏を返せば「自分の作品」への意識の高まりであり、欲求の深まりと言ってもよいだろう。これこそ自分の作品に臨むべきタイミングなのである。心の準備がなにもない状態からのスタートすることに比べれば、作品に取り組む主体性、能動性は格段に違うと、私は確信している。
他人の手による造形を土台に自分の作品を作る。違和感を覚える人も少なくないであろう。文化ということを考えてほしい。私たちは、見知らぬ先人達や赤の他人である異国の人々によって築かれた文化を土台とし、材料として自分たちのそして、自分自身の文化を築いている。美術も文化的な活動のひとつであり、同じようにして発展している。そこにあるのは1時間そこそこで作られたたった1枚の作品であるが、それは複数の人間によって築かれた、れっきとした文化の縮図だと思う。そこから何を残し何を残さないか、どのように変化させるか。そうした一連の判断もれっきとした個性の発揮、自己表現である。個性、独創性を誤解し、自分の内にのみしか眼を向けていないことに比べれば、人間の在り方として何倍も自然で健康的である。孤独の内に黙々と作品に没入するタイプの作家であっても必ずどこかで外の世界を呼吸しているものである。
表現活動を人間や社会の在り方の類推から考えてみる。私はこの考え方を大切にしている。表現活動は社会や人生の縮図であり、そこで生きていることのできる人ならば誰でも、表現活動の中で活き活きとできる可能性があるのだ。美術は確かに日常生活からかけ離れたものかもしれないが、日常と分離しているわけではない。どちらも同じ人間の営みとしての根を共有しているはずである。
私は、作品制作の悦びとは、単に物としての作品を作り上げることにとどまらず、制作そして作品を通じて、自分と何かの間に深い絆を感じていくことの悦びだと考えている。作品を作る中で深まる何かとの絆。こんなことは普段あまり意識されていないと思う。だからこそこの講座でそうした場面をはっきりとしたカタチで用意したのである。三人目の受講生まではまだどこに向かうともわからないまま、眼の前の発言に対応していた。しかし、最後の受講生は違う。自分の表現、つまり自分の想いにカタチを与えるという方向性をもって、対話に臨まなければならない。他人の行った対話を引き受け、自分の結論に導いていくより複雑な対話が必要となる。
2時間はあっという間である。個々の受講生が自分の表現として納得できる作品に到ったかどうかはわからないが作品の完成、未完成はこの講座ではほとんど問題ではない。この講座の目的は、作品を作らせ品評会をすることではなく、例えるなら作品という花を生み出す土壌をみんなで耕そうというところにある。本学の授業でこんな講座をそのまま実践できる機会はないが、ご紹介させていただいた私の考え方、想いを、どこか念頭にご自身の制作に臨んでいただければ幸いである。
おわり。