曖昧ということ5
2008.12.02
「わかる」は「分ける」に通うずるという。物事の判断がしっかりできることを「分別がある」という。理解し判断するということは「あれとこれとは違う、別のモノなのだ」ということを認識することである。さて一般的に、モノの外形(シェープ)を表す描線を「アウトライン」「輪郭」という。「モノの外形」を表す描線とは同時にモノとモノとの「境界」を表す描線でもある。「この線までは腕、この線からは衣服」といったように。モノとモノとの境界、ある意味では視覚とは異なる要素によって認識されるものである。その要素とは「言葉」である。つまり「この線までは『腕』という言葉で表されるもの、この線からは『衣服』という言葉で表されるもの」という認識が成り立たせている境界線。どこまでが腕でどかからが衣服か、先に「視覚とは異なる要素」がこれを捉えていると述べたが、多くの方は「眼で見て認識することじゃないか、そんなことは」と思われるであろう。しかし、必ずしもそうではない。時としてモチーフの表面にできている陰影のコントラストがモノの境界よりも強いメリハリとなって現れることがある。腕の明るい部分と暗い部分のコントラストのメリハリが、腕の皮膚と衣服の境界よりも格段に強く視える。そのような状況であって、「明暗をしっかりと観察しましょう」と指示しても、初学者にあっては陰影よりも皮膚と衣服の境界を強く描くケースが見受けられる。視覚的に捉えた明暗の境界よりも、皮膚、衣服という言葉、観念の捉えた境界が優先して認識され表されていると思われる。
今例に挙げた光、明暗。少し光りの角度が変われば、モデルがすこし動けば全く異なってしまう。その時、その場でしか観察できない在り様。移ろい易いとらえどころのないもの。その場かぎりの固有のもの。言葉は基本的には対象を固定し一般化して捉える働きを持つ。言葉による概念的観念的な認識の仕方への依存度が高ければ、相対的に、まさに今自分が直面しているもの、自分の眼の前で起こっていること、その流動性、個別性を感じる 感受性が減ずる。観念的、概念的な捉え方が減ずればおそらく言葉が作りだす境界(輪郭、アウトライン)の在り様も自ずと「曖昧な」ものとなってくるように思う。強引に結びつけるわけでは無いが、アトリエから戸外に飛び出し、移ろいゆく光のあるがままをその眼で捉え、表現しようとした印象派の絵画。印象派の作品がそれ以前の古典的な絵画に比べると輪郭がはっきりせず、モノのカタチが曖昧になっているのも無関係ではないと私は考えている。輪郭、カタチが「曖昧」になった分、その作品の中に立ち上がってきたものは何か。みなさんの眼で捉え感じてほしい。