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愛知産業大学通信教育部 山口雅英のブログ

カテゴリー : 鑑賞法 の記事

鑑賞法その3

NHKで視た鑑賞法ということを書いていてもうひとつ思い出したことがある。

まったく絵画鑑賞に興味のない人にすこしでも興味をもって鑑賞してもらう方法ということで紹介されたものである。それは「もし買うとしたらどの絵にするか選んでください」と言って鑑賞してもらうというものであった。大部以前に視た番組なので細かい反応までは覚えていないが 、最初に、ただ漫然と鑑賞していたのと比べると、かなり絵について好き嫌いや、欲しい理由などについて語れる、そんな鑑賞に仕方に変わっていた。

私にも似たような経験がある。学生時代は、美術館や画廊に行っては自分の作品制作の参考になるところはないか、どんな技法をつかっているんだろうか、とそんな視方で人の作品を視ていた。他に作品の鑑賞の仕方があるなどと想いもしなかった。社会人になって、給料をもらうようにると、人の作品を買うのも良いかも、と思うようになった。「買うとしたら」「自分の部屋に飾るとしたら」、今までは考えたこともなかったような気持ちでの作品鑑賞。そんな気持ちで画廊に行くと、不思議なことに何となく作品の見え方が違ってくるのである。いろいろあるので書ききれないが、例えば仕上げの丁寧さなどというが気になったのも「買うとしたら」と思って鑑賞したことと無関係ではない。「飾るとしたら」と考えると自分の志向する画風より、例えばもっと飾り映えのするものはどうだろうか、と今までは気にも留めなかったような作品にも興味がでてきたものである。本当に問題意識ひとつ違うだけで見え方が変わってくるというのは不思議で面白いものである。また、「その値段だったらもう少し足せば欲しかったギターが買えるではないか」などと、他のものと比べる、などという考えも浮かんできたには自分でも驚い た。そうするとこれまで自分の作品を買ってくれた人は、その金額で他にも何か買えるかもしれなかったのに「私の作品を選んでくれたんだなあ」とある種の感 慨が浮かんできたりもした。

「○○するんだったらどの作品」。買うんだったら、飾るんだったら、あの人にプレゼントするんだったら…みなさんもいろいろ想定して鑑賞してみてはいかがだろうか。

鑑賞法その2

鑑賞の仕方について、その2。

以前テレビで(確かNHKだったと思うが…)展覧会鑑賞の達人の鑑賞方法というのを紹介していた。恐らくご覧になったかたもいらっしゃることだろう。その、達人の鑑賞法のひとつをかいつまんでいうと、最初にざっと展覧会場を回り印象に残る作品を選ぶ、後からその作品だけをじっくり時間をかけて鑑賞する、というものである。せっかく来たのだから、と最初の一点からじっくり時間をかけて鑑賞していては、途中で集中力が途切れてしまう。限られた気力、体力、集中力、そして時間を本当に視たい作品に集中するため、それ以外の作品はすっとばしてしまう、という実に明快な方法である。作品鑑賞とは以外と集中力を必要とするものであり、また集中してみなければならないもの(先の投稿で述べた通り)。また、会場をざっと眺めじっくり鑑賞すべき作品とそうでない作品を見分けるという経験を積んで、作品を瞬時に判断する直感を養うのも大切なことである。じっくり鑑賞しなければ良さはわからない。というのも確かに正論である。しかし、良い作品は遠目であっても、通り過ぎざまであっても、訴求してくる魅力というものを持っている。それを嗅ぎ分ける臭覚を養っておくと、鑑賞のみならず、自身の作品制作にも大いに役に立つ。以前も述べたが絵画制作に費やす労力の半分以上は「視る」ことに費やしているのである。漠然と視るのではなく、しっかりした目的意識を持ちしっかり感じ、考えながら視る。鑑賞と制作は異なる活動のように視えて、実はとても近い能力を使っている。自らが描いている作品のように他人の作品を鑑賞し、他人の作品のように客観的に自らの作品を視ながらどう描いていくかを探る。実際に描くか描かないかの違いだけなのである。

鑑賞法

先に投稿した「レコーディングダイエットをヒントに」の中で「あるがままと対峙する」ということを述べた。その関連でひとつ、鑑賞について述べたい。

時々「美術作品とはどのように鑑賞したらよいのですか」という質問を受ける。その人の様子、状況によって私の答えは違ってくる。これが正しいなどという鑑賞法はない。と同時に問題意識に応じていくつもの鑑賞法がある、と言える。しかしいかなる鑑賞法であっても、作品の「あるがままと対峙する」 ことは大切なこと。

そんな想いからこんなアドバイスをすることがある。「鑑賞法を求めている時点で真の鑑賞からかけはなれていくのです」。

何かの方法に捕われると、その方法に依存した視方しかしなくなる。つまり作品の「あるがままと対峙する」ことをしなくなるのである。
人間はとかくはやく「わかりたい」と思うもの。作品を視たらその場で何か「判った」という感触を得たい、と思う気持ちは誰にでもあり、その為に、鑑賞の技術、ノウハウがあれば教えてほしいと思うのだろう。しかし、「わかる」ということを早急に求めすぎてはいけない。高温火傷のようにその場での衝撃は大きいが早く治るものがあれば、低温火傷のようにじわじわときて治りにくいものもある。作品との出会いにも似たようなところがある。会場では「面白い」と思ったのに意外と速く忘れ去ってしまう作品がある。逆に何日も忘れられない作品がある、何日かして突然思い出す作品がある。

反芻するたびに新たな想いが湧いてくる作品との出会いもある。意識には上っていなくとも、その奥のほうで、その作品について熟成されていく想いが、確かにある。私は、それはとてもとても大切なことだと思っている。作品のあるがままを、視て、視て、視つくす。全てを受け入れそのありのままを心に刻む。言葉にすると大袈裟だがそのような姿勢をもって作品に対峙する経験は必ず必要である。何故か。

作品は作者によってそのよう作られたものだからである。作者が作品制作の過程の中で作品を視ることに費やした精神力は並大抵の量ではない。作品制作、とかく描く行為がクローズアップされるが、ある意味「視る」ということにその何倍もの精神力が使われている。作者は作品の制作途中のあるがままを受け入れ、ながらその作品をどのように育んでいくべきか感じ、考えてきたのである。そうした作られたものを、そうのように鑑賞することは鑑賞の要中の要であると、私は考える。作者が制作の間中、問いかけてきたことを、一朝一夕でわかる鑑賞法などあり得ないのだ。

ただ、ここで述べたようなことを本当に実践していたらいくら時間があっても足りない、実際には限られた時間の中で効率的に鑑賞する技術を知りたいと考えるのはわからないでもない。しかし、いかなる鑑賞法による場合であっても、ここに述べたようなことを念頭においてほしい。本当に大切な人、大切なものとは「技術やノウハウ」で付き合うわけではないということ。

 
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