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愛知産業大学通信教育部 山口雅英のブログ

カテゴリー : 視るということ の記事

「視る」こと、日常の練習 その2

先に取り上げた「トリミング」、あれも日常の中でちょっとした時間にできる「視る」練習である。常にL字形の紙を2枚用意しておく。「戯れに」で結構、いろんなものをトリミングしてみる。次から次にやってみる、手応えのあるものは微調整しながらやってみる…。大切なのはただ漫然とするのではなく、やりながら「これは良い」とか「これ今いち」とか、判断しながらすること。その判断は誰にも知られるものではありませんから、遠慮せずに恥ずかしがらずにどんどん勝手に判断していけばよい。迷っても保留にしない。どんどん自分にとっての良し悪しを判断していく。「視る」ことが味わうこととなり、判断することとなるための練習。

視ることと判断することなんて日常生活の中で常にやっていることだ、と言われればその通りである。しかし、日常的には「視る」ことと「判断すること」の間に「言葉」が介入している。視たことがそのまま判断材料ではなく、言葉に解釈され(勿論そんな意識もないままに、無意識に)て判断材料となるべく加工される。つまり、言葉にしやすい部分が採られ、言葉にならない、なりにくい情報は削ぎ落とされ、そのように加工されたもので判断していることが多い。眼に視えるものから、もっと直接的に判断していく。例えるなら食べた瞬間に「美味い」とか「不味い」とか判断する、あの味覚の在り様に視覚の在り様を近づけていく、そんなイメージ。

「視る」こと、日常の練習

絵が上手くなりたければ、勿論沢山描くことである。しかし描いていない時であっても、絵がうまくなるための練習はできるのだ。それは「視る」こと。日頃からいろんなものを視る練習を積んでおくこと。デッサン等対象を観察して絵を描いた経験のある人であるなら話がはやい。その時のことを思い出しながら、日常様々な場面で眼の前にある対象を「もし、これを描くならどうやって描こうかな」と、頭の中でそれを描いていることを想像しながら眺めるのだ。カタチを正確に視る練習がしたければ、いろいろな部分の方向や長さを観察してみる。他の部分の方向や長さと比較したり、関係を見たりしてみる。陰影を意識し、明るい暗い中くらいと分けることを意識して観察してみる。その色を表現するならどんな混色をし、どうやって塗るのかイメージしてみる。

「視る」ことの練習とは、単に上手に描くための技術的な視方に止まるものではない。奥が深いのだ。それでもそのための練習の入り口としてはここに紹介したような視方をしていることには大きな意味がある。お勧めである。考えながら「視る」練習。

「視る」という意志のカタチ

外部から光が入ってくる、だから眼はモノを視ることができる。では、モノを視る、モノが視えるということは受動的なものなのか、というと全くそんなことはない。勿論単に眼に映っているという物理的な意味では受動ではある。人間が「視る」ということは「視ようとする」意志の現れである。その意志がなければ何も視えてこない。意志のないところで視えるのはただ色彩と形態が雑然と入り交じった風景に過ぎない。

「視る」ということは「私の視ているものは何なのか」という意識を対象に投げかけることである。日常生活でいちいちそんなことを意識はしない。しかし、それが、「人間が視る」ということなのである。だから視ることは単なる物理的光学的プロセスではなく、精神的活動になってくる。視るとは心を使ってみるということ、知性と感性を使ってみるということ。その使い方に程度の違いはある。 ボーッと景色を眺める、頭の中ではまったく別のことを考えている、眼を閉じているわけではないので眼に景色は映っているが、しかしはっきりと何を視ている、という意識もない。そんな視ることに心を使っていない状態、誰もが経験あるだろう。逆に、指に刺さった小さな小さなトゲを探すような視方もあれば、群衆の中で迷子になった我が子を必死で捜そうとする視方もある。どんな問題意識を対象に投影しながら視るか、それによって視えてくるものが違う。光学的、物理的には人によって視えるものに大きな差がでるわけはない。しかし精神的には全く異なるものが視えてくる、意識に上ってくるのである。

絵を描く人、画家。とかく「描く」という部分がクローズアップされる。画家とは描く技術に秀でた人だと考えられがちである。しかし実際には画家は「描く」以前に「視る」ことに秀でているのである。「視る」技術に秀でた人なのである。その卓越した「視る」力は対象の観察のみに使われるわけではない。その力は自らの制作プロセスに向けられる 。眼の前で手を加えられ刻々と変化していく作品そのものに向けられる。作品がどう成長していくか、それを決定するのは極論すれば描く技術ではない。視る技術の如何によって大きく変わってくるのである。何しろ技術そのものもその作者が「視て」「是」としたものなのだ。

こうしたことはあまり意識されないが、絵を学習していこうとする者にとってはとても大切な考え方である。視ることをおろそかにして良い作品を生み出すことなどあり得ないこと。視るという人間にとって当たり前で身近な行為であるからこそ、深く考えることをしない。しかし、スポーツ選手の使う身体は私たち常人と別ものなのではなく、普段の生活の中で私たちが当たり前に、ほぼ無意識に身体を使うことの、その延長にある、それと同じことである。日常生活で不自由しないという範疇を超えて「視る」ということを追究する。絵画教育の大きなポイントである。

 
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