人は何故絵を描くのか 「見る」ことは「描く」ことを含む
2010.05.12
「Q&A何 故絵を描くのでしょうか」ということで、昨年の9月から10月にかけて11本、投稿してきた。私としては、もう少し続けるつもりだったのだが、自分自身でも言いたいことが「喉まで出ているのに」言葉にならない、文章ばかり冗長となって核心部分に触れられないもどかしさを感じつつ途切れてしまった。
そんなある日、ある本でこんな一文に出会った。
「『見る』ということは本来、自らの内に『描く』ということを含んでいる」
コンラート・フィードラー(1841-1895)という美学・芸術学者の言葉。ある本とはフィードラーの直接の著書ではなく、別の著者の本に引用として記載されていたもの。この文章の詳しい解説もなかったので、フィードラーがどんな意味合いでこの言葉を使ったのかわからない。しかし、この短い言葉、私には 「故絵を描くのでしょうか」の核心に触れられないでいた私のモヤモヤを一気に吹き飛ばす疾風であった。私の解釈を述べたいと思う。
人間は見たものを、その網膜に写ったままに受け止め、記憶しているわけではない。細かいことは抜きにするが、見たものは脳にそのまま投影されるのではなく、例えるなら「描かれている」のである。網膜が脳に送るのは単なる信号でしかない。そして脳はその信号のあるがままを、例えるならスライドの映像がそのままにスクリーンへ投影されるように機械的にそれを受け止め、記憶しているわけではないのである。これは説明するまでもないことであろう。同じものを見ても、どこを意識して見ているか、どこに関心を持ち、どこに無関心であるか、まったく人それぞれである。記憶の仕方もまた然り。何をどこをどのように覚えているか、何を忘れているか、そして記憶がどのように変化しているか、誰かと昔の思い出を話す、そんな時に誰もが実感することだと思う。内容、そしてそれについての価値判断まで異なっている。
「描く」ということは「投影する」という機械的なものではなく、「描き手」が想定され、その描き手の個性や興味、関心、価値観、世界観が反映される、そういう意味合いを持っている。その意味では誰にとっても「『見る』ということは本来、自らの内に『描く』ということを含んでいる」と言える。
絵を描くことに限らない。人間の脳の中でおこっていることは、だいたい外の世界と対応している。そして人間は目的とか意味ということとは、別に、頭の中に起こっていることは、外に出してカタチにしたい、行動にしたいという欲求を持っている。本能的に。何故とそうするのかと問われても、本能としか言えないような行為、活動。
「見ること」は人間にとって決して特別な行為ではない。普通の日常的な行為である。生きていれば、何かを見てしまっているのである。そして見てしまっている以上は、脳に対して描いてしまっているのである。見ることが特別な行為でなければ描くことも実は特別な行為ではない、人間の精神において全く日常的な行為なのである。あまりに当たり前のことすぎて、日常意識されることがないのだ。そして呼吸や食事という日常的に当たり前の行為が生命を支えているように、脳に「描くこと」は人間の精神活動の根幹をなしている、そう言い切って良い核心を、私は言葉「『見る』ということは本来、自らの内に『描く』ということを含んでいる」からの触発によって得ることができた。
繰り返すがコンラート・フィードラーがこの言葉に込めた意味合いはわからない。しかし、わからないのに、このような価値を私に与えてくれたそのことにこの言葉のすばらしさがある。