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愛知産業大学通信教育部 山口雅英のブログ

カテゴリー : Q&A の記事

人は何故絵を描くのか 「見る」ことは「描く」ことを含む

Q&A何 故絵を描くのでしょうか」ということで、昨年の9月から10月にかけて11本、投稿してきた。私としては、もう少し続けるつもりだったのだが、自分自身でも言いたいことが「喉まで出ているのに」言葉にならない、文章ばかり冗長となって核心部分に触れられないもどかしさを感じつつ途切れてしまった。

そんなある日、ある本でこんな一文に出会った。

「『見る』ということは本来、自らの内に『描く』ということを含んでいる」

コンラート・フィードラー(1841-1895)という美学・芸術学者の言葉。ある本とはフィードラーの直接の著書ではなく、別の著者の本に引用として記載されていたもの。この文章の詳しい解説もなかったので、フィードラーがどんな意味合いでこの言葉を使ったのかわからない。しかし、この短い言葉、私には 「故絵を描くのでしょうか」の核心に触れられないでいた私のモヤモヤを一気に吹き飛ばす疾風であった。私の解釈を述べたいと思う。

人間は見たものを、その網膜に写ったままに受け止め、記憶しているわけではない。細かいことは抜きにするが、見たものは脳にそのまま投影されるのではなく、例えるなら「描かれている」のである。網膜が脳に送るのは単なる信号でしかない。そして脳はその信号のあるがままを、例えるならスライドの映像がそのままにスクリーンへ投影されるように機械的にそれを受け止め、記憶しているわけではないのである。これは説明するまでもないことであろう。同じものを見ても、どこを意識して見ているか、どこに関心を持ち、どこに無関心であるか、まったく人それぞれである。記憶の仕方もまた然り。何をどこをどのように覚えているか、何を忘れているか、そして記憶がどのように変化しているか、誰かと昔の思い出を話す、そんな時に誰もが実感することだと思う。内容、そしてそれについての価値判断まで異なっている。

「描く」ということは「投影する」という機械的なものではなく、「描き手」が想定され、その描き手の個性や興味、関心、価値観、世界観が反映される、そういう意味合いを持っている。その意味では誰にとっても「『見る』ということは本来、自らの内に『描く』ということを含んでいる」と言える。

絵を描くことに限らない。人間の脳の中でおこっていることは、だいたい外の世界と対応している。そして人間は目的とか意味ということとは、別に、頭の中に起こっていることは、外に出してカタチにしたい、行動にしたいという欲求を持っている。本能的に。何故とそうするのかと問われても、本能としか言えないような行為、活動。

「見ること」は人間にとって決して特別な行為ではない。普通の日常的な行為である。生きていれば、何かを見てしまっているのである。そして見てしまっている以上は、脳に対して描いてしまっているのである。見ることが特別な行為でなければ描くことも実は特別な行為ではない、人間の精神において全く日常的な行為なのである。あまりに当たり前のことすぎて、日常意識されることがないのだ。そして呼吸や食事という日常的に当たり前の行為が生命を支えているように、脳に「描くこと」は人間の精神活動の根幹をなしている、そう言い切って良い核心を、私は言葉「『見る』ということは本来、自らの内に『描く』ということを含んでいる」からの触発によって得ることができた。

繰り返すがコンラート・フィードラーがこの言葉に込めた意味合いはわからない。しかし、わからないのに、このような価値を私に与えてくれたそのことにこの言葉のすばらしさがある。

Q&A 何故絵を描くのでしょうか 「表現したい」という欲求 その5

人間が自分自身のことを捉えるということは、世界の中で活動し、世界に対し働きかけている自分、つまり外部に客観化されたものを通じて捉えることであり、その契機となる活動、働きかけが「表現」と言われるものである。

人間の活動のすべてが「表現」か。こういう活動は表現であり。ああいう活動は表現ではない、と活動の内容によってそれが表現か否かを決めることはできないだろう。精神がそれを表現と捉えるかどうか、そのことば問題になる。日常のルーチンな活動であっても表現となりうる。しかし、精神がよりその活動を意識するのはやはりその活動に、なにかしら目新しさ、不可解さといったもの、「どうやらこれは簡単にルーチンに処理できるものではないな」というようなことが感じられるときではないだろうか。

深く考えなくても、壁に向かって投げ、跳ね返ってきたボールを受けることができるように、人間はいちいちはっきりと意識せずとも簡単に問題を解決してしまう力をもっている。いろんな問題をスムースに解決していく知識、知恵をもっている。日常の多くのことは多かれ少なかれそのように処理している。しかし、そのような活動では、「私」というものははっきりと浮かびあがってこない。既存の知識、知恵では対応できない慣れないこと、不可解なこと、新奇なこと。こうしたことに遭遇したならば、人間はそれに対処できるようになるため新しい知識、知恵、考え方、工夫を構築していかなければならない。すんなり解決できないこと、直ぐに答えが見つからないこと、どうやってよいのか既存の方法で対処できないこと、そうしたことに向っていく。私の精神は新しい「私」を作り上げてその問題に対処しようとする。そこに「私」という存在が浮かび上ってくる。私が更新される時、精神の新陳代謝。

人間が生きている、ということはただ単に生命活動を維持していることだけを指すのではない。精神的な部分も含めて生きているということである。まさにその生の充実の瞬間を求め「表現活動」は行われているのだ、と私は考えている。繰り返す。表現は特別な人の特別な活動などではなく、精神、心の働きを持つ人、つまり人類全てにとって必要な活動なのである。

先に、どんな活動が表現で、どんな活動が表現ではない、という区別があるわけではない、意識がそれを表現と捉えるときのレベルの差があるのだという主旨のことを述べた。あらゆる活動が表現となりうる。絵画だけが表現ではない。絵画という固有のジャンルだけに表現としての価値があるのではなく、絵画や音楽、小説、演劇などあらゆるジャンルの更に奥底にある原理によって絵画表現も支えられているということである。

Q&A 何故絵を描くのでしょうか 「表現したい」という欲求その4

表現の大きな目的はコミュニケーションである、と述べてきた。しかし、人間にとって、表現にはもっと根源的な意味合いがある、と私は考える。精神はなんの為にあるのか、心は何のために働くのか。全てがその心の持ち主である私が、「私」として十全に生きていくためである。心の最大の関心事はその心の持ち主である「私」であるはず。

精神は眼や耳等の感覚器官を通じて情報を得る。しかし、眼も耳も私の外の世界に向けられている。私の内側には向けられていない。私の精神は私の外の世界の情報しか受け取ることができない。つまり心は、心にとっての最大の関心事である「私」そのものを直接捉えることはできない。勿論、心の内側に意識を向ける、例えば記憶を辿る、未来について空想する、といったことは内面に向けての心の働きであると言える。しかし記憶や空想も外の世界から得た情報を素にして形成されるものである。

人間の眼も、耳も外の世界に向けられている。では私は「私」をどのように捉えていけばよいのだろう。外の世界に働き変えている自分を捉えていく、それが心はそのようにして「私」を捉えようとしているのではないだろうか。つまり精神にとって「私」とは、「世界の中で活動している『私』」として捉えられている、あるいはそのようにしか捉えることはできないのではないだろうか、と私は考える。精神が「私」のことを捉えていくためには、私は活動しつづけていかなければならない、つまり表現、「心理的、感情的、精神的などの内面的なものを、外面的、感性的形象として客観化」しつづけていかなければならないのではないだろうか。客観化とはコミュニケーションの為に他者がそれを認識できるようにカタチを与えることであると同時に、自分自身に対してもそれが認識できるように客観化することである。表現とは特別な活動のことではなく、人間がきちんと自分自身を捉えていくための健全な精神活動のために必要不可欠な活動なのである。

 
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