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愛知産業大学通信教育部 山口雅英のブログ

カテゴリー : 色彩構成 の記事

色面構成作品の講評抜粋「水戸黄門」的配色の考え方

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この作品に使用されている色彩、大きくは三つのグループに分かれます。単純に言えば明るい色彩と暗い色彩、そして鮮やかな色彩。やや遠くから眼を細めてみるとわかるのですが、明るい色彩のグループと暗いグループのグループ感の明度差がとても大きいです。それに対し、それぞれのグループ内の明度差は小さいです。つまり明るいグループの中なの灰色、黄色、水色
はほとんど同じような明度、茶色と緑も同じような明度。勿論差がまったくないわけではないのですが、全体の明るいグループと暗いグループの作りだす強いコントラストの中では小さな差はほとんど目立たなくなります。明るさが二極化すればゴツゴツとしたダイナミックな印象になり、明るさの差が小さければ穏やかな印象の作品になります。それはそれでそれぞれの方向性ですからどちらでもよいのですが、前者の、明度差の大きな配色においても、明度のキャラクターが被ってしまわないような配慮が必要です。先にグループ内の明度差がほとんどない、というのは言い方を変えれば「キャラが被っている」ということです。意図的に二極化した印象を目指す作品にあってもデリケートなキャラの操作、演出は必要です。例えば、善と悪しか登場しないようなお話はまったく味気ない者です。勧善懲悪の典型のようなテレビドラマ「水戸黄門」においても善の中、悪の中にそれぞれ様々なキャラクターを設定し、単調にならず、味わいがふかくなるよう工夫がされているわけです。もう一つ水戸黄門でいうなら、善の人々のグループのほうにキャラクターにバリエーションを持たせているというのも特徴的です。悪にも、善にもキャラクターが盛りだくさんでは、ドラマのポイントがぼけてしまいます。配色においても似たようなことが言えます。この課題でいうなら6色をどう使うか、という位置づけの問題。提出された作品では「明るいグループ3、暗いグループ2、鮮やかなグループ1」という割合になっています。それはそれで良いと思いますが、その割に暗いグループの存在感が強すぎます。基本的にはバリエーションを多く持たせたものの面積を広くする方が自然です(敢えてその原理を逆手にとる方法もありますが)。それと繰り返しますが、グループ内の明度のキャラクターに違いを今よりもう少し差をつけてみると良いでしょう。
鮮やかな色はグループというよりもオレンジ一色ですが、画面の端から端まで等間隔で散らすのは、画面の印象を散漫にします。アクセント、主役となる色彩はドラマでいうなら「クライマックス」です。ここぞ一発で使うものです。特に色面構成のような一瞬で全体像が視得る造形作品においては、なおさらです。あちらにもこちらにもクライマックスのようなものが散在していると、ここぞ一発の効果が薄くなってしまいます。

色面構品作品の講評抜粋「スイカに塩」的配色の考え方

以下は学生から提出された色彩学のある課題へのコメントである。全部理解してもらおうとするなら、この作品の制作意図のレポートまでも紹介しなければいけないところではあるが、それは割愛する。それよりも、私の講評の中に示したこと、配色、構成という造形的な表現の中にも、日常的みられる様々な人間のモノの感じ方と深い結びつきがあるのだということ、その部分を読んでいただきたい。そして絵画の初学者のみなさんにおいて、それぞれの表現を考えていくときのひとつの視点、一助にしていただければ、と思い紹介する次第である。

色面構成

配色、構成について、結果としてこの作品のようになった意図についてはレポートに記述されており、漠然と制作に臨んだのではないということはわかります。ただ、ほぼ類似の色相のトーンを(ほぼ)規則的に変化させ同じ形で機械的に繰り返すというその手法、誤りとは言いませんが、出来上がったモノは「表現」というよりも色見本のような印象になってしまっています。
「表現」とは作者の眼に見えないイメージにカタチを与えることであり、またその表現されたものを視た人にとっても、単なる光学的、視覚的な体験であることを超えて、なにがしかのイメージを想起させることです。作者である自分自身も、それを視た人にもその「造形」が契機となって心が動かなければ成りません。心は変化のあるところに起こります.どんな変化を仕掛けるか、それが表現の要(かなめ)です。階段をイメージしてみてください。勿論階段には変化があります。しかしその変化の仕方が単調、機械的であるために、その階段を経験している人の心の中ではその変化が惰性になっていきます。つまり変化があまり意識されなくなってきます。階段の一段一段に対しすごく慎重に確認して進む、ということはおそらくないでしょう。階段をそのものを楽しむものではなく、どこかへ行く為の手段でしかありません。その手段にすぎないものは、それほど意識に登らせずすっと通り過ぎてしまったほうが良いのです。もし仮に階段の変化の仕方がばらばらだったらどうでしょうか。前述のように無意識に惰性で無難に進んでいくことはできなくなるでしょう。どこかへ行く為の手段に過ぎない階段であったらそれは避けるべきことですが、階段を登ること自体を楽しむための階段だったらどうでしょうか。遊びとして結構楽しめるのではないでしょうか。登山をする人もただ頂上に到達することだけが目的ではありません。その登山の過程での景色の変化や珍しいものとの出会いを楽しむものです。山岳救助隊が仕事のために頂上に向うときはそんなスタンスではいけませんね。
この例えで言いたいのは、レポートに書かれたような意図は、きっと反映させたとは思いますが、その機械的な単純なルールで作られた作品は「眼」がいろいろと楽しみながら散策できる、その画面の中を眼が歩き回りながらいろいろな変化を楽しんでいく、何かを発見しながら在る散歩する、という要素が薄いです。勿論こうした配色、構成は世の中にあります、服飾やインテリアといった大きな表現の中のひとつのパーツとして、その配色の仕方の存在意義が成立するために依存できるものがあってのことなら良いのですが、この作品の場合、他に依存するべきものは何もありません。この矩形の中の色彩と構成が全てです。それで何かを表現しなくてはなりません。
変化の付け方には等比級数的な変化や等差級数的な変化もあります。そうした中にところどころ不規則な変化を入れてみることもできます(構成にしろ色彩の選択にしろ)。いろいろな流れの表現が考えられます。ただ「流れる=ストライプを並べる」「流れる=グラデーション」でゴールにしてしまってはあまりに単純です。それは大きな方針が決まったに過ぎません。それをスタートとすることから表現がはじまっていくのです。ストライプならばどんな幅の変化にしようか、グラデーションの中に何かワンポイント違った色彩の要素を入れてみようか…などの、工夫がそこから始まるのです。医療関係の勉強をしておられるのであれば人間の、ものの感じ方についてもそのうち学ぶ事になるでしょうか、例えば赤以外の色彩のない部屋に人を入れるとだんだん赤すら感じなくなるものです。そこにほんの一瞬でも違った色を示すことで、全体が真っ赤なんだということが意識されると言います。そんな非日常的なことだけでなく、スイカに塩をかけて甘さを引き立てるということも、人間のものの感じ方をうまく利用した方法です。
繰り返します、大方針をスタートとし、そこにどんな変化をしかけていくか、そこから表現活動がはじまっていくのです。慣れないうちは上手く行かないこともあるでしょうが、結果の成功、失敗よりも、プロセスにおいてそういうことを意識したかしなかったが問題です。この課題が有意義の色彩体験になったかならなかったかの。

 
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