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愛知産業大学通信教育部 山口雅英のブログ

カテゴリー : 審査員 の記事

審査員11 メモ

2月22日、某市の市民展審査を終えた。これまで「審査員」ということでずっと投稿してきたが、まだいろいろと言い尽くせぬままに審査の日を迎えることになった。

審査の前日に書き付けたメモを紹介する。ランダムに思いついたことを綴った自分のためだけの覚え書きであり、審査員としてのすべてを言い尽くしているわけでもない。そのつもりで読んでいただきたい。

明暗の演出/光の観察/確かな描写力、ただの器用さではなく/熱意、悦び/独自の造形世界/構築性/テーマ性/ポエジー/幻想画ーどれだけイマジネーションが羽ばたけているか/アイデア???/伝えたい気持ち、思いやり/日頃の生活の中での視点、視線が感じられるが。「作者」が見えてくる作品/律動、眼の快/機械的にならない、遊び心/たった一本の線であってもこんなにも味わえる、というような/筆遣い、息づかい/元気いっぱい、あふれんばかりの、感動の増幅/生(なま)の魂/ダイナミック/観察力/やさしさ、おもいやり/静けさ穏やかさ/世界観/描くいている、その自らの行為に触発され、描く/くったくない、とらわれのない/想いを宿した色カタチ/しっかりと自身のその眼で見ている、心で捉えている/装飾性/誰それ風/複雑さの内にも単純な力強さを宿す/キャラクター/演出、要素、主従関係/余白/

審査員10 わかりやすさ4

わかりやすさ」ということで長々と述べてきたが作、この「わかりやすさ」が作品に対する評価基準のすべてではない。しかし、とても大切なことである。自分が作品で何を表現しようとしているのか、しっかり自分がわかっているのか、という意味での「わかりやすさ」。自分が作品で表現しようとしていることを、しっかりと視る人にも感じてもらえるように作品を、造形を練り上げているか、という意味での「わかりやすさ」。単純に言うなら作品を制作するということは、こうした「わかりやすさ」を求める気持ちに支えられている。そして鑑賞という行為も「わかろう」とする気持ちに支えられている。基本、コミュニケーションなのである。

作品は理屈で捉えるものではない、感じるもの、というのは正しいと想う。人間の直感は馬鹿にはできない。投げて跳ね返ってくるボールを受ける、物理の複雑な計算をしなければ答えがわからないような事柄でも、平気で直感でやってのける。文章中にも頻繁に使った「おいしい」ということ、これを感じられるのも理屈ではない。直感である。審査の際にも直感による判断はないがしろにはできない。ただし直感は必ずしも生得的なものばかりではない。その多くは生きてきた中で培われ、磨かれるものである。何度も何度も繰り返し体に覚えさせることも大切、同時に、要因を追求し対応を意識化することも大切である。言葉によって問題を整理することも大切。だから言葉にして記述してみた。

絵画は複雑なコミュニケーションである。手段も、目的も、成果も曖昧と言えば曖昧である。その曖昧さに意味がある。曖昧であるから時に応じて感じ方が変わる、作者を、視る者を映し出す鏡になる。曖昧だから変化していける。作品も、作品に携わる自分自身も。この曖昧さが必要なのである。「わかりやすさ」について述べてきたと言っても、それでわかりきってしまうわけでもなく、またわかりきってしまおうというつもりもない。しかし、その複雑さ、得体の知れなさをも味わいとしてしっかりと味わうためには、ただ漠然とその得体の知れなさの前で立ち尽くすのではなく、「わかりやすさ」を手がかりに作品の中に分け入って、分け入って、そして得体の知れなさの核心に出会えるのが良いと考える。

審査員9 わかりやすさ3

配色や形態、構成、質感、そういった要素を表情として捉える、感じる。鮮烈な原色、強いコントラスト、鋭角的な形態。例えばこんな造形が醸し出す表情は、ダイナミックとか、エネルギッシュといった印象を与えるだろう。逆に控えめで変化のデリケートな配色、ゆるやかに変化するおおらかな形態。例えばこんな造形が醸し出す表情は、優しさや穏やかな印象になるだろう。作品の方向性を感じさせる絵画の「語り口調」、そんなものをイメージしてもらえるだろうか。

絵画は具象的な表現のものであっても、現実の単なる引き写しや、代用品ではない。モチーフに対して受動的であってはならない。配色や形態、構成、質感、こうした造形の要素によって積極的、能動的に作者の世界観を表現していこうとする姿勢を持ってはじめて「表現」のスタートラインに立てることになるのである。「造形の表現力」ということを協調すると、写実的な具象絵画を否定しているように受け取られる場合がある。違う。「抽象画」のところでも述べたように、それが具象絵画か抽象絵画かという違いが表現の優劣に結びつく訳ではない。写実的な具象絵画においても、優れた作品にはしっかりとした「造形の語り口調」を感じることができるもの。これ見よがし大袈裟に振る舞ってみせるような作品よりも、真摯に繊細に造形に向かう、誠実さの感じられる作品のほうが良いこともある。

「主従関係」を明確にすることも「わかりやすい」作品にするためには必要なことである。主役しか考えていない。絵画の初学者に多く視られる。描きたいものしか描かない。これは例えるなら「肉が食べたいから、肉だけ食べる」というのと同じである。「自分の描きたいものを描く、それでいいじゃないか」と言われるかも知れない。しかし、「表現」として肝心なのは、好きなものをよりおいしく食べる工夫、配慮。絵画を描くことが単なる自己満足であることを超えて、あるいは他の人とのコミュニケーションとなる。私が「おいしい」と思ったものをみんなにも味わってもらいたい、どうせならよりおいしく味わってもらいたい。「食べ物への愛情、見る人への思いやり」、なにやら絵画についての話ではないような言葉が出てきた。しかし、このように考えることはとても大切なことである。表現を練り上げていくその根底には、こんなような気持ちがあると私は思う。

どうしたらその色彩や形態が「よりおいしく」感じられるか。チューブから出した、何も混ぜていないこの上なく鮮やかな赤、作者はこれをもっと鮮烈な印象にしたいと想った、どうすれば良いか。赤に手を加えることはできない。ならば組み合わせる色彩によってより赤さを協調する。それが対比効果である。赤の補色、緑。これを添えることで赤はより協調され鮮烈な印象となる。こうした補色対比はわかりやすいひとつの例である。画面上のある部分にひとつの色を塗ったということは、他の部分の色彩すべてに手を加えたのと同じことになる。同じことが形態にも言える、曲線を協調したいのなら直線、あるいは鋭角に曲がるような線と組み合わせることで引き立ててやればよい。基本は単純なことである。人間は必ず、対比の中で物事を感じて、捉える。対象を、対象の周辺にあるものとの対比で判断する。現在視ているものを過去に経験したこととの対比で判断する。真っ赤に塗られた部屋の中にいると、だんだん「赤」を感じなくなると言う。そこにほんのわずかでも「緑」を持ち込んだ瞬間眼前にわーっと赤が立ち上ってくるという。対比でものを捉えることは人間にとって本能であり、生理である。これを利用して作品をおいしく見せる、私が作品を通じて表現したいことをよりしっかりと感じてもらうようにする。つまり「わかりやすく」してくのである。

 
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